難波・心斎橋
大阪という地名が文書に現れるのは、戦国時代浄土真宗中興の祖である蓮如によって書かれた「御文」の中です。蓮如は、京都山科の地とを追われ、「何もない寂しい」この土地に大坂御坊「石山本願寺」)を建立したと言っています。
それまでこの地は、浪速(難波・浪花・浪華)などとの記載され、古墳時代には難波宮が置かれ、その南に四天王寺が建立され、生玉神社が人々の信仰を集めていました。また、平安時代には淀川岸に「渡辺津」「 」 と呼ばれた港があり、後白河法皇や平清盛らが京都伏見からこの地に船で渡り、住吉神社に参り、そして吉野にお参りをしたのでした。
道頓堀
<歴史>
1612年(慶長17年)東横堀川と西横堀川を結んで木津川へ注ぐ堀川の開削が開始され、安井道頓(成安道頓)が新川奉行に任命された。その後、従弟の安井道卜らが引き継ぎ、1615年(元和元年)に完成した。
大坂城主の松平忠明は、道頓の死を追悼し、「道頓堀」と命名した。
道卜は振興策として、南船場の塩町通付近に形成されていた芝居町を道頓堀川の南岸に移転させた。当初は道頓堀通の北側に川を背にして芝居小屋が立ち、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎が行われていたが、前者は1629年(寛永6年)に、後者は1652年(慶安5年)に禁止された。1653年(承応2年)に芝居名代5株が公認され、興行権免許の印として櫓を正面に掲げた劇場が道頓堀通の南側に立つようになり、歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられた。
現在、堺筋の日本橋北詰交差点北東角に安井道頓・道卜紀功碑が建立されている。 1707年(宝永4年)10月の宝永地震および1854年(嘉永7年)12月の安政南海地震では、大阪湾に押し寄せた津波が河川を遡上し、道頓堀付近まで水没したと伝えられている
道頓堀行進曲
赤い灯青い灯 道頓堀の
川面にあつまる恋の灯に
なんでカフェーが忘らりょか
酔うてくだまきゃ あばずれ女
澄ました顔すりゃカフェーの女王
道頓堀が忘らりょか
好きなあの人もう来る時分
ナフキンたたもよ唄いましょうよ
あゝなつかしの道頓堀よ
宗右衛門町
宗右衛門町ブルース
きっと来てねと 泣いていた
かわいあの娘は うぶなのか
なぜに泣かすか 宗右衛門町よ
さよなら さよなら 又来る日まで
涙をふいて さようなら
街のネオンも 消えてゆく う
ぶなあの娘も 消えてゆく
なぜかさびしい 宗右衛門町
よ さよなら さよなら うしろ姿も
夜霧にぬれて さみしそう
いちょう並木に 春が来る
君にも来るよ 幸せが
なぜかかなしい 宗右衛門町よ
さよなら さよなら もう一度だけ 明るい笑顔を みせとくれ
千日前
月の法善寺横町
庖丁一本 さらしに巻いて
旅へ出るのも 板場の修業
待っててこいさん哀しいだろうが
ああ 若い二人の 想い出にじむ 法善寺
月も未練な 十三夜
(セリフ)こいさんが、わてをはじめて法善寺へつれて来て くれはったのは
「藤よ志」に奉公に上った晩やった。 はよう立派なお板場はんになりいやゆうて、
長いこと水掛不動さんにお願いしてくれはりましたなあ。 あの晩から、わては、わては、こいさんが好きになりました。 腕をみがいて
浪花に戻りゃ 晴れて添われる 仲ではないか お願いこいさん 泣かずにおくれ
ああいまの私(わて)には 親方はんに すまないが 味の暖簾(のれん)にゃ 刃が立たぬ
(セリフ)死ぬ程苦しかったわてらの恋も、
親方はんは許してくれはった。
あとはみっちり庖丁の修業をつんで一人前の料理人になることや。 な、こいさん、待っててや。ええな、こいさん。
意地と恋とを 庖丁にかけて 両手あわせる 水掛不動
さいならこいさん しばしの別れ ああ夫婦善哉 想い出横丁 法善寺 名残りつきない 灯がうるむ
中之島